四国・松山②

松山めぐりです。

これは、松山城

松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築き始めたお城。門・櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城と言われており、松山城は、日本で12か所しか残っていない「現存12天守」のうちのひとつ。・・・だそうです。

 

お城から、瀬戸内海がよく見えます。

こちらは、道後温泉本館。工事中なのですが、入浴は可能でした。

四国・松山②(終わり)

四国・松山①

ここは、愛媛県の県庁所在地、松山です。

 

JRの駅・・・
しぶい・・・

 

市電が走っています。
なかなか便利なものですね。一乗車大人180円。

 




市の中心部? 大街道(おおかいどう)で降りました。

猛暑の中での散策です。

 

ビルの谷間に、
取り残された一軒の店。
そんなものも気になります。

四国・松山①(終わり)

四国・大洲③

四国の愛媛県、大洲です。

 

これは、大洲城
この4重4階の天守閣は、当時のものではなく、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって往時を忠実に復元したものだそうです(木造です!)。

 

 

そのお城の敷地内に、卒然と建つ像。

中江藤樹」(なかえとうじゅ)ですね。

中江藤樹(1608~1648)・・・
 儒学者。日本陽明学の始祖。近江国高島郡小川村(現、滋賀県)出身。通称は与右衛門(よえもん)。9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
 藤樹は朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、「時・処・位」の具体的な条件に応じ、その状況に適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、自由な道徳思想を唱えた。これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた・・・

 

朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想』
  これは、江戸期に蓄積された日本の教養の一端、かも、と思いました。

 

四国・大洲③(終わり)

四国・大洲②

猛暑の中、大洲市内を歩きます。

 

観光客向け?

こんなものが売られていました。

が、人がいない。
音がない。無音の世界です。

 

一人、見つけました。なぜか、ほっとしました。

四国・大洲②(終わり)

四国・大洲①

夏の旅行の写真をアップします。

 

これは、四国、愛媛県の小京都と言われている「伊予大洲」(いよおおず)
JR予讃線で、松山から1時間くらい。

 

その駅は、昭和そのもの。

 

駅を出て、向かったのは、臥龍山荘(がりゅうさんそう)。

 

明治時代の後半、大洲の隣町・新谷出身の豪商・河内寅次郎がこの地を購入。河内は大洲藩が政策として生産に注力した“木蝋”の輸出で成功し財を成した貿易商で、商売の拠点は神戸に置いていましたが、老後の余生を送るための場としてこの山荘を計画。1930年頃から構想10年以上、4年の工期をかけ、1907年(明治40年)頃に竣工。

・・・だそうです。

 

 

猛烈な暑さでしたが、畳の上に座ると、川辺の風がさわやかに抜けてゆきました。

 

四国・大洲①(終わり)